这方面的资料太少了,我写论文时,一直在天津图书馆里找资料。
好可惜,我的毕业论文是写的是这个,可惜答辩完就扔了,要不直接发给你多好。
牡丹と桜の縁
花と国民性に関する西园寺先生の见解には独特なものがある。よく考えてみると、日本人を桜にたとえ、中国人の性格特徴を牡丹にたとえることは、十分に适切だとは言えないが、しかし、それほど强引でもないような気がする。
私の古里―山东省の青岛にも桜が多いが、いずれも远いところからの来客で、ドイツの西洋桜、日本の东洋桜と、それぞれその美しさを竞っている。青岛は季节的に东京よりやや遅く、晩春初夏、东京の桜がとっくに散ってしまったころ、我古里の桜はちょうど花盛りを迎えるのである。メーデー前后の何日かの休日は、绝好の花见の时期となる。
桜を「输入」花とすれば、牡丹は中国の原产だと言えよう。牡丹は山东省荷泽と河南省の洛阳に多い。西园寺先生が访れた済南から西に3时间ぐらい行ったところに荷泽がある。花咲く季节になると、果てしない花の大海原が広がり、东西南北から観光客が次々に押し寄せる。満开の牡丹は人々に我を忘れるほどの喜びを与えてくれるのだ。牡丹は妖艶であるわりには、辺ぴなところに育つ。それが、杨贵妃のちょう爱と文人たちの文笔のおかげで、ますます华やかさが膨らみ、早々と花王の栄冠を手にすることができたのである。
しかし、牡丹をここまで持ち上げた杨贵妃は惜しくも美人薄命で、美しくて悲しい物语を残した。
日本留学の时に、この物语の日本版続编を闻くことになるとは思いにも寄らなかった。名古屋の热田神宫は1000年の歴史を夸る神社であるが、杨贵妃がここで牡丹と相伴って生活していたという美しい物语が伝えられている。闻くところによると、多情な皇帝は、人々の目を忍んで、杨贵妃を远い日本に送り、杨贵妃はここで寂しい一生を过ごしたそうだ……。杨贵妃が日本に渡ってきたというこの伝说は、人々のやるせない気持ちを几分慰めるものである。
时代は発展するものである。先生がおしゃったように、社会も人间も少なからぬ変化を起こしている。ただ、一つだけ変わらないものがあると言えるなら、それは、日本人の桜に対する热い爱であり、中国人の牡丹に対する一途な爱だと言えよう。
つい先日、日本・冲縄の某高校生からわれわれのところにお手纸が届き、牡丹の栽培方法を寻ねられた。彼が通っている学校は中国の学校と姉妹校を结んでおり、彼らが桜を送ったら、中国から牡丹の种が送られてきたという。どうしてもこの牡丹を无事に咲かせたいが、経験がないため、手纸で牡丹の种からの栽培方法を寻ねようとしたのである。
私は、この互いの交流と理解を象徴する桜と牡丹に祝福を捧げたい。その花が、根を下ろし、芽を吹き、花を咲かせることを愿ってやまない。実は、中国の各地にも桜林があって、桜の花见はずいぶん前から中国人の春先の一大行事として定着しており、日本人も同じく牡丹の花が好きなようだ。今后、中国に桜の木がますます多くなり、日本で牡丹の花がますますきれいに咲くことと信じている。このような桜と牡丹の交流は、中日両国人民の交流の歴史に、牡丹と桜の縁として残るだろう。そして、知らず知らずのうちに、両国人民の「国民性」にも影响を及ぼすだろう。
ちなみに、ちょうど今日(4月15日)、第18回国际洛阳牡丹祭りの幕が上がる。西园寺先生はしばらく中国にいらしてないのでは?できれば、ぜひお忙しい中から、お时间を割いて荷泽と洛阳に来られ、牡丹の风貌を一目ご覧になってほしい。
桜と牡丹
前々回のコラムで王京さんと五十川さんが桜について书いていました。今日は4月15日、东京の桜は散りはじめ、いたる所で花吹雪が见られます。 世の中の不景気を吹き飞ばすような染井吉野の艶姿を见ているうちに、私はかつて北京で友人と交わした花谈义を思い出しました。 私は中学校3年から大学を卒业するまで、10年间を北京で过ごしました。当时の中国は政治运动の连続で、経済的にも大変贫しい时代でした。东西冷戦の最中で、紧张した毎日でしたが、それでも学生たちはそれなりに生活をエンジョイしていました。当时の中国は外国との交流はあまりありませんでした。でも周りの学生たちは结构外国のことを知っていて、日本人の桜好きのことも知っていました。
北京大学在学中の春のある日、学友の1人がおもしろい议论をふっかけてきました。
「やっぱり日本人は桜そのものだな、国民性といい、思考方法といいまさに桜だ。ところで君は中国人を花にたとえればなんの花だと思う」というのです。私たちは「花と国民性」について大いに议论しました。
彼の意见によると、日本人は桜、中国人は牡丹だといいます。桜はパッと咲いてパッと散る、咲くときも一绪、散るときも一绪。散り方が美しい。一轮一轮の花はこれといった特徴はなく、目立たないが、树全体、林全体の花となると圧倒されるような华丽さと迫力がある。つまり日本人は、行动様式が集団主义的で、规律を重んじ、集団からはみ出すことはしない。1人ひとりの个性はないが、集団では大きな力を発挥するというのです。
一方中国人は、个性が强くあまり集団行动は好まない。他人と同じことをするより独创的なことをしたいという意识が强い。牡丹という花は、同じ木の花でも咲く时期は一绪ではないし、形や色が微妙に违う。同じ木の花同士妍を竞う。だから中国人的だというのです。
たしかに日本人はあまり自己主张はしませんし、议论が下手だといわれています。それに比べ中国人の议论好きには定评があります。彼の「中国の指导者は大変だよ、何亿という个性の固まりをまとめなければならないのだからね」といって笑った颜が印象に残っています。
时代が进み、世代が変わる中で、「桜」の日本人は変わりつつあります。たとえば会社というのは1つの集団ですが、古い世代はこの集団のために个人や家庭を犠牲にしてまで粉骨砕身働いてきました。公休をとるのも何となく后ろめたさを感じるほど「会社人间」が多かったのです。今の若い社员は组织に缚られるのを嫌います。もちろん公休は権利として堂々ととります。前は年に1,2度あった社员旅行は、最近あまりしなくなりました。若い人が嫌がるからです。旅行は个人で、あるいは気のあった者同士で行くべきであり、个人の时间を制约されたくないという理由です。堂々と自己主张する人も増えました。これは决して悪いことではないと思いますが、やはり年配者の中には何となく割り切れない人がいることも事実です。これは良い悪いというよりジェネレーション・ギャップでしょう。
「牡丹」の中国はどうでしょうか。「新人类」という言叶も生まれるほど、やはり世代间の考え方や习惯の违いは大きくなっていると闻きます。
绚烂(けんらん)たる中华文明にはぐくまれた中国人と、その文明から大きな影响を受けた日本人。しかし若い世代は本来の伝统的文化に加え、グローバリズムが席巻する中で、さまざまな文化の影响を受けるのは必至です。新しい中国人と日本人の诞生です。
私はいくら时代が変わり、世代が変わっても、「桜」と「牡丹」はそれぞれよき伝统は引き継いでもらいたいし、なによりも仲良くしてもらいたいと切に愿います。日中の友好と协力はアジアの安定と平和の基础ですから。
桜を知る
私は去年3月末に日本に着いたが、空気はまだやや冷たかった。何人かの日本の友人に会うと、最初の言叶は决まって「いい时期に来ましたね」であった。この「时期」は言うまでもなく、桜の季节である。
今、日本では「花」といえば、说明を加えない限り、必ずと言っていいほど桜のことをいう。しかし、昔からそうだったわけではない。西山松之助先生の研究によれば、古くは「花」といえば梅の花だったが、后になって次第に桜に定着してきたそうだ。诗を咏みながらお酒を饮み、歌や踊りを楽しむということは、宫廷贵族の「风流」な花の宴を物语っていたが、これは大陆への憧れから生まれた模仿である。ただ、「花」のイメージを桜に集中させるのは、日本人の独特な美的感覚だと言わざるを得ない。
外国人の心の中でも、桜は日本を代表している。中国でも日本で制作された宣伝用の絵を常に目にすることができる。絵の上部には、日本のシンボルとされる富士山がうっすらと雪化妆をしてそびえたち、その山麓(さんろく)をみめ丽しい新干线が疾走する。手前の一角をみると、斜めに何本かの桜が満开して、薄いピンクと澄み切った青空とがよく映えている。たとえ、富士山を日本人の心の中の永远の古里といえば、新干线は日本経済の飞跃的発展を表しており、桜は日本人の自然に対する思い、美的风情のシンボルだと言えよう。
中国で花といえば、人々は豪华绚烂たる牡丹(ぼたん)を思い浮かべるだろう。また、优雅で奥ゆかしい兰の花、雪の中で鲜やかに咲く梅の花、すらりと美しい莲の花……地域の违い、経歴の违いによって、思い浮かべるものも多様である。日本と比べ、多くを包容している気がする。この点において、斎藤正二氏の见解はかなり面白い。同氏は、日本の国の花―桜は社会神话であり、民族主义、国家主义の产物であるという。これは、「花と言えば桜、人と言えば武士」という言叶からもその面影を见ることができる。
もちろん、日本人の桜に対する爱着を政治に帰结させることはできない。中国人と日本人の花を観赏する最も大きな违いは、中国人の対象拡散に対する日本人の集中だと言うより、中国人は开花」を観赏するのに対し、日本人は「落花」を観赏することだと言った方がいいかもしれない。中国人は、花が満开した时の鲜やかで美しい様子が好きであり、日本人は、花が散り去る时の淡々とした哀伤を観赏するようである。
桜の特徴は姿が消えやすいことで、普通1周间ももたず、しかも风や雨に会えば、一瞬にして散ってしまうのである。京都の有名な「哲学の道」に沿って散策すると、春日よりの日差しの切れ间から、ひとしきりひとしきりとそよ风が頬を抚でてゆく。それにつれて、桜の花びらが舞い落ちる。地面に落ち、谷川に落ちる。そして、さらさらと流れ去る川はこれらの精霊を运んでゆっくりと、しかも戸惑うことなく、远くに流れ去る。确かに、ある种の生命のはかなさ、盛者必衰の感を覚えてしまう。
桜にはある种の魔力があるかもしれない。それでもって、远い昔と今を结びつけ、慎重というものを奔放へと导き、无常の感叹を现世の大事なものに変えているのかもしれない。桜を知り尽くせば、日本人を知り尽くすことになるのではないかと思われてならない。
桜に思う
春が来た。中国の大地には、季节の交代を告げる色様々な花が咲いているだろうと思う。日本は桜のシーズンだ。亜热帯の冲縄では、1月から咲いているが、そろそろ九州や四国からも、桜の开花の便りが届くころだ。日本は南北に细长い国だ。长い时间をかけて、南から北へ、顺に桜の花が开いていく。
桜(主にソメイヨシノ)の开花日が等しい地点を结んだ线を、「桜前线」と呼んでいる。前线が东京を通过するのは3月末ごろ。东北地方の大部分は4月。5月になると、やっと北海道の各地に至る。
桜は日本人の生活の中にも深く根をおろしている。
中国と违い、日本の学校は4月に始まる。小学生になった子供と亲たちが手をつないで入学式に出かけ、桜咲く校庭で记念写真をとるのは、昔から変わらない日本の风物诗だ。
「花见」も春の楽しみの一つだ。人々は桜で有名な行楽地へ出かける。东京の上野公园や新宿御苑、大阪の大阪城公园や「造币局の桜の通り抜け」には多くの人たちが押し寄せる。
花见客たちは桜の下に座って酒を饮んだり、食事をしたりして春の一日を楽しむ。歌ったり、踊ったりする人もいる。会社などでは、职场の同僚たちが桜の下で宴会を开く。宴会の干事はいい场所を确保しなければならず、夜の宴会のために、昼から「先锋队」を公园へ派遣することもある。
古都・京都は桜の名所が多い。秋の红叶の美しさが名高い岚山は、桜でも有名だ。ここには、桜のある景色を描写した故周恩来首相の诗碑もある。日本に留学した周氏は1919年4月5日に岚山を访れた。ピンクの桜と、绿の松は雾雨の中にけぶっていた。しかし、しばらくすると、云间から太阳の光が差し始めた。そんな光景と、自らの思いを込めながら、周氏は诗を咏んだ。碑に刻まれた诗は、この时のもので、60年后の1979年4月、トウ颖超夫人を迎えて诗碑の除幕式が行われた。
周氏が岚山を访ねた1カ月后、中国では五四运动がまき起こる。周氏は帰国して运动に加わった。岚山の诗は革命家の若い日の记录として残っている。
1972年9月、周氏は首相として、日中国交正常化の交渉に临み、北京を访れた田中角栄首相ら代表団を、歓迎夕食会を开いてもてなした。人民大会堂の华やかな会场では、解放军が奏でる日本と中国の歌の数々が流れた。最初の日本の歌は「さくらさくら」だった。周首相は、岚山の桜を思い出しただろうか。
中国にも、たくさんの桜があるようだ。
私が仕事で、北京に驻在していた时、家族で、玉渊潭公园へ、花见に出かけた。访れた时期が少し早かったためか、桜の花は少なかったが、公园は大势の人たちでにぎわっていた。人民日报海外版は、玉渊潭公园には7种类、约3000本の桜があると绍介している。一斉に、満开になると、さぞかし美しいだろう、と想像している。
中国の人たちがたいへん亲しんでいる春の花は何だろうか。やはり牡丹だろうか。私が中国の牡丹を初めてじっくり见たのは、山东省済南市の公园を访ねた时だった。ずいぶん大きな花だなと思った。梅の花もまた中国の人たちに爱されているように思う。
桃园も、菜の花畑も美しい季节だ。うららかな一日、中国の春の花を见ながら、散歩してみたい。
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